創作と光 脳がつくる見る世界

 月と地球の距離は変わらないのに、昇ったばかりの月は大きく見える。踏切警報機のふたつの赤いランプは、交互に点滅しているだけなのに、まるで動いているように見える。私たちが「見ている世界」は、目の前にある本当の世界と同じとは限らない。あなたは本当の世界を見ているのだろうか?

見ることの不思議

 紀元前の画家たちは、写実的に描くことを競った。古代ローマの博物学者プリニウスが書いた「博物誌」には、次のようなエピソードが紹介されている。

エッシャーの「滝」
滝が落ちて水車が回っている。水車の右にある水路から見ると、水が奥に流れるにつれて水路の位置も低くなっている。ところが水路の支柱に視点を変えると、一番低いと思ったところから滝が落ち、水路の終着点が実は一番高いところになっている。
All M.C.Escher works ©Escher Holding B.V. - Baarn - the Netherlands. / Huis Ten Bosch - Japan

 古代ギリシャの画家ゼウクシスは、ライバルのパラシオスと写実の力を競うためブドウを描いた。すると、そのブドウが実物だと思った鳥が飛んできた。それを見たゼウクシスは自分の勝利を確信し、パラシオスに、彼の絵にかかっているカーテンを開けて絵を見せるように言った。ところが、カーテンは、実物ではなく絵に描かれたものだったのだ。ゼウクシスは、画家の自分の眼もだましたパラシオスの絵は自分に勝るとして、パラシオスに勝利を譲ったという。

 このように実物そっくりに描いて、目の前に実在するかのように描かれた絵を「だまし絵」と呼ぶ。“だます”という言葉に抵抗がある人もいるかもしれない。しかし、だまし絵がだますのは人の視覚であり、だまされたとわかったときに喜びを感じる、ユーモアに満ちたものなのだ。

 視覚の不思議に魅せられた画家の中でも、20世紀初めに活躍したエッシャー(1898-1972)は、その代表格だろう。エッシャーは規則性や連続性、そして空間の奥行きを描くことに夢中になった。その不思議な世界を描くときのことを、エッシャーはこう述べている。

 「私は世界で一番美しいものをつくっているのだと考えながら描いています」。

 見ることの不思議はロマンに溢れている。私たちの視覚を惑わし、どうしてこのように見えるのかといったことは現代科学でもわかっていないことが多い。いったい、私たちは世界の「本当の姿」を見ているのだろうか。

すべてが見えているわけではない

盲点の説明の図
視神経が束になって、見たものの像を結ぶことができないところを、盲点と呼ぶ。

 私たちが本当の世界を認識するかどうかを考える上で、「見ること」と「見えること」の関係を見ておこう。

 例えばこの文章を読んでいるとき、あなたの視点は行が変わるところで、右から左へ急速に移動する。このように素早く移動する眼球運動を「サッカード眼球運動」という。私たちは300ミリ秒ほど視線を固定して見ることと、数十ミリ秒のサッカード眼球運動を繰り返している。しかしサッカード眼球運動のときに見た情報は切り捨てられて「見えていない」。

 他にも、「見えない」ことがある。「盲点」という言葉はよく使われるが、本当に盲点があることを実感した人は少ないだろう。盲点は、瞳孔の反対側にある視神経が束になっているところを指す。この部分には、像を結ぶ網膜がないため、見ることができない。しかし普段、私たちはそのことに気づかない。それは、脳が見えない部分を補っているからだ。

 盲点を実感する簡単な実験を試してみよう。

 画面から40cmほど離れて、右側にある赤いバラの花を、右目をつぶって左目だけで見ながら顔を画面から遠ざけたり近づけたりする。するとある時点で、左側の黄色いつぼみが消えたように見えるだろう。

  • 健康のため、長時間画面を見つめたり、何度も繰り返すのは、おやめください。

 脳はサッカード眼球運動のように「見えているものを見ないようにする」ほか、盲点の実験でわかるように「見えないものを見えているようにする」こともある。見ている世界は、脳によって情報が整理された上での世界なのだ。

錯視とは

 人が物事を本来ある姿と異なる姿として知覚するとき、それを「錯覚」という。錯覚は本来ある姿とはなんぞやという哲学的な問いと切り離すことができないが、ここでは常識的に本来ある姿、として考えてみよう。

 錯覚の中でも、視覚に関するものを「錯視」という。錯視について、心理学の分野で科学的な研究が進んだのはこの150年ほど。錯視が起きるとき、その色や形に応じて、脳のいろいろな部位が関わっていることがわかってきた。しかしまだナゾの部分が多い。

カフェウォール錯視:灰色の水平線が上から右左右左に傾いて見える角度錯視

 だまし絵と錯視デザインは、視覚のメカニズムを問うという点では同じだと言える。しかし、だまし絵と錯視デザインは学問的には明らかに異なる。一言でいうと、だまし絵は錯視を使っていない。

 どういうことかというと、だまし絵は、「見る」状態が脳で完成する直前に、全体として矛盾が現れるものをいう。心理学では「高次知覚」という。対して、錯視は「低次知覚」といって、色や形を認識するとき、つまり「見る」状態を作るごく最初の段階で起こる。

 錯視の研究は19世紀に始まり、脳科学の進展とともに脳のどこの部分が関わっているのかなど、研究が進んでいる。研究が進むと、すべてのことをひとつの原理で説明したくなるのが科学である。では、錯視はいずれひとつの統一理論で説明することができるのだろうか。

 立命館大学の北岡明佳教授は、そうはならないという。錯視は色や形によって異なるメカニズムで起こっているから、全ての錯視をひとつの理論で説明することは不可能なのだ。だからこそ、錯視の解明には、錯視デザインが欠かせない。

脳が起こす錯視

 錯視の中には、静止画なのに動いて見えるものがある。その代表例に、黒から灰色、灰色から白に向かって回転しているように見えるデザインがある。

最適化型フレーザー・ウィルコックス錯視・タイプI
回転して見えるようにデザインされた、同心円の二つの円。回転の方向は、黒→灰色→白→灰色。ふたつの絵が並べてあるのは、交互に絵を見ようとする性質を利用して、錯視が起こりやすくするため。

 京都大学の芦田宏助教授は「動く錯視が起きるためには、わずかな視点の動きが必要」だという。前に述べたように、私たちの眼は常に細かく揺れ動いている。普段はその揺れを感じないようになっているが、物を見たときに連続して出る神経細胞の電気的にプラスの信号とマイナスの信号は、マイナスの方がわずかに大きい。これが原因となって図のようなパターンを見ると、黒から濃灰へ、白から薄灰へという動きはその逆よりも強い動き信号を発してしまう。こうして特定の方向への動きだけを強めに感じ、全体として回転して見える。

 人は始めから、見た情報を切り捨てたり、情報を補ったりする能力を身に着けているわけではない。生後数ヶ月のうちに視覚が発達し、たくさんの学習によってこれら生きていく上で必要な能力を身に着ける。私たちが見ている世界は、たくさんの学習と脳の機能があいまって初めて見えるようになるのだ。錯視は、その狭間で起こる現象であり、「見ることとは何か」を私たちに改めて問いかける。

 絵を描く、あるいは錯視をデザインする創作が、これらの研究の一翼を担っていることは興味深い。「デザインを通じた現象の観察と、モデルを考えそれを検証する関連が大切」だと北岡教授は言う。美しいものを創りながら、なぜ美しいのか考えることは、すべての学問に通じる基本でもある。

取材協力/掲載

北岡明佳 立命館大学教授
芦田宏 京都大学助教授/2006年9月