生命と光 透明な組織 水晶体

 私たちの体をつくる細胞は通常、透明ではない。細胞の中には様々な機能をもつ物質があり、それらが光を吸収して色が出る。しかし体の中では、一部、透明な組織がある。それが眼の中にある「水晶体」だ。水晶体が透明であるには、細胞が透明なこと、その配列が規則正しいことの二つが重要だ。

凍ったままの氷


大プリニウスの肖像画と1472年に出版された「博物誌」© Giraudon/PPS

 水晶を「凍ったままの氷」といったのは古代ローマの大プリニウスだった。透明な水晶は古代ローマでは夏に涼をとるために飾られたという。

 プリニウスはローマの博物学者であると同時に、政治家、軍人でもあった。地理学や天文学、植物学や鉱物学など広い範囲の知識をまとめた全37巻にものぼる「博物誌」は圧巻だ。中には怪獣や巨人の表記もあり、科学的価値については議論のあるところだが、当時の知識を集大成した功績は大きい。水晶についても、博物誌にあるように「凍ったままの氷」ではもちろんないが、透明で美しいこの鉱物はどこにでもあることもあり、こうした記述が残っていること自体が興味深い。博物誌は中世に印刷技術が出てきて出版されるようになってからも読まれ続けてきた。

 水晶はどこにでもある鉱物であることから、古くから各地で親しまれていた。何よりも、人々はその透明度の高さに魅せられたのだろう。

 実は私たちの体の中にも、水晶のように透明な組織がある。すべての組織が透明にできていれば、透明人間になれるかもしれない。しかし普通、組織には色がある。体の中にある透明な組織、レンズの役割をもつそれは「水晶体」と呼ばれている。

透明な水晶体

 眼の中にある透明な組織、水晶体は英語では「レンズ」という。その名の通り、目のピント合わせをするレンズの役割をもつ組織で、近くを見るときには水晶体を支える筋の動きによってレンズが厚くなり、反対に遠くを見るときにはレンズを薄くすることでピントを合わせている。


眼の構造。水晶体はチン小帯によって厚さが調整されピントを合わせる。また、水晶体は、角膜と水晶体との間に存在する房水から栄養をとる。


水晶体の構造。

 水晶体は体の中でも特殊な透明な組織だ。透明な組織とは普通では考えられない。

 水晶体は約1000層もの細胞が、非常に規則正しく並んだ、たまねぎに似た形をしている。透明性を保つ上で重要なのは、細胞の内に余計なものを含まず、途中で屈折率が変わらないこと、そして細胞自体が規則正しく並ぶことで屈折率を変えないこと、この両方だ。細胞壁の部分はわずかに光を散乱させ、「完全な透明」とはいえないが、主要な部分は透明性を保っている。

 驚くことに、水晶体の細胞は、一生を通じてほとんど入れ替わらない。体の組織の多くの細胞は、常に新しく入れ替わっており、6カ月で約9割が新しい細胞に入れ替わる。しかし水晶体の特に中心部は、生まれるときにできた細胞を、一生を通じて使う。

 新しい細胞ができないということは、傷を負ったときなどに、自己修復する機能を持たないことを意味する。年をとると多くの人がかかる白内障は、長年にわたって水晶体が徐々に濁ってくることで起こる。治療法は手術で混濁した水晶体を除去し、人工の水晶体を入れるしかないのはそのためだ。

 ではなぜ、水晶体では新しい細胞が生まれず、細胞を自己修復する機能がはたらかないのだろうか?その答えは、細胞が透明であることと関連があった。

注目された細胞の自然死

 通常の細胞には、生命の設計図となるDNAをはじめ、様々な「細胞小器官」が入っている。しかしこうした組織があると、屈折率が変わるので細胞は透明ではなくなる。水晶体細胞は、こうした細胞小器官を持たないことで、その透明さを保っているのだ。細胞小器官がないと細胞の設計図となるDNAもないので、新しい細胞をつくったり修復したりすることができない。

 もちろん、生まれる前の動物が、母親の胎内で水晶体の細胞をつくるときにはDNAをはじめとする細胞小器官は存在していた。しかし細胞小器官はその後、すみやかに壊される。

 水晶体の細胞小器官はなぜ、どのように破壊されるのか。その仕組みを解明するにあたって注目されたのが「細胞の死」のメカニズムだった。

 細胞死には、全身の細胞で古い細胞が新しく入れ替わるために起きているプログラムされた細胞死「アポトーシス」のほかに、体の一部が壊死を起こす「ネクローシス」、そして自分自身を食べてしまう「オートファージ」がある。ネクローシスが感染や血流の減少が原因で起こる非日常的なものであるのに対し、アポトーシスは体中で細胞が新しくなるために起っている。アポトーシスが起こると細胞が細かくちぎれていき、通常、一度始まったアポトーシスが途中でストップすることはない。

 近年の研究の世界では、水晶体ができるときには、このアポトーシスが非常によくコントロールされ、細胞小器官は壊れるが、細胞の外壁や細胞骨格、クリスタリンと呼ばれる特殊なたんぱく質は残るようにアポトーシスが機能するのではないか、という説が考えられている。一方で水晶体の中に細胞小器官がないのは「オートファージ」によるものだという研究結果も出ており、まだはっきりしていない。

左手系が右手系へ


左はL型、右はD型。タンパク質中のアミノ酸にD型が含まれると構造が乱れる。

 透明性を保っている水晶体も、年をとると濁りいわゆる白内障になる。これはたんぱく質の構造が崩れて濁って、他のクリスタリンとの会合が悪くなる。古くから知られている白内障だが、たんぱく質の構造がくずれる理由のひとつである、アミノ酸の構造の変化がわかってきたのは最近のことだ。

 ところで生物をつくるたんぱく質の素材であるアミノ酸には「右手系D型」と「左手系L型」がある。D型・L型は化学的な性質は同じだが、鏡に映した関係になる。そして不思議なことに、すべての生物は、L型のアミノ酸からできたたんぱく質からなる。地球上にはD型のアミノ酸のみからできたたんぱく質でつくられている生物はいない。これは生物学の大きな謎だ。

 一部の生物ではたんぱく質の一部にD型アミノ酸を含んでいることが報告されていた。また、水晶体のD型アミノ酸が老化とともに増えることは1978年にわかっていた。京都大学の藤井紀子教授のグループは、水晶体を詳しく調べることで、水晶体の中のクリスタリンたんぱく質の中の特定の部位のアスパラギン酸(アミノ酸の一種)がD型に変化していることをつきとめた。

 たんぱく質中にD型アミノ酸ができると、D型アミノ酸周辺のたんぱく質の構造がゆがみ、その結果、クリスタリンが異常に凝集してしまうことがわかった。凝集体が光の波長よりも大きくなれば、白く濁り白内障になるのだ。老化に従ってたんぱく質中のアミノ酸がL型からD型に変化することは、アルツハイマー病やパーキンソン病にもみられ、研究が進んでいる。

 藤井研究室ではさらに踏み込んで、なぜたんぱく質中でアスパラギン酸がL型からD型に変化するのかを調べている。通常、生体内のような温和な環境で他のアミノ酸がL型からD型に変化することはないが、アスパラギン酸はその側鎖の特異性によりL型からD型に変化しやすい性質を有している。また、たんぱく質中でどのような場所に位置しているアスパラギン酸がD型に変化しやすいのかもわかった。さらに、このような現象は紫外線照射によっても促進することがあきらかとなった。

 水晶体の透明性は、細胞自体が透明に保たれるメカニズム、それに加えて構造が規則正しく保たれるという二つの要素が組み合わさって保たれている。そう考えると、その仕組みの巧みさに驚くばかりである。水晶体が水晶体である理由を突き詰めることは、生物の根本的な仕組みを解明することにつながるのだ。

取材・調査協力/掲載

藤井紀子 京都大学原子炉実験所放射線生命科学研究部門 教授
松島博之 獨協医科大学医学部眼科教室 准教授
坂上沙央里、瀬尾拡史 東京大学医学部/2010年8月